「ただいま」の声に 当たり前のように返ってくる 彼女からの「おかえり」に、 何度心が震えたかわからない。

扉を開けたらすべてが 夢のように消えていたらと、 ひとり怖がっていること。

その恐怖をいつも 彼女の笑顔と声がふわりと 消してくれていること。 知らなくていいの、なにもね。 私だけが抱える内緒の話。

夕方過ぎに帰宅すると、 彼女はいつもキッチンにいる。 ホカホカの、やさしいにおい。 お腹と心をくすぐるにおい。

「なに作ってるの」と聞けば、 「なんでしょう」といつもの返し。 ちっともわからないけど、 きっとおいしいものなんだろう。 彼女の肩にあごをくっつけながら、 野菜や肉が変わっていく様子を見る。

そう、ちゃんと照らしてね。 彼女の魔法みたいな指さばきを。

完成した料理は、 奥の洋室に運んで食べる。 こぼさないようにそうっと。

「おいしい」と言えば、 「よかった」と彼女の声。 しあわせで、やわらかな空気。

6帖の部屋ではおさまらずに、 この幸福がいつか外まで あふれてしまうんじゃないか。 なんて、心の中で心配する。

満腹のまますぐに 眠りたいところだけど、 「お風呂もね」と彼女は言う。 しぶしぶ木の引き戸を開けて、 バスルームに向かうのが日課。

一度顔を洗っただけで ふんふんと部屋に戻ったら、 「髪が濡れてないねぇ」と すぐに彼女にバレた。鋭い。

入ってしまえば、気持ちいい。 それはわかっているけれど、 入るまでが面倒なのだ。

トイレはさすがに 自分の意志で行きます。 たまにちょっと我慢するけど。

もともとは彼女ひとりで 暮らしていた部屋は、 あたたかな空気でいっぱいだ。

それは彼女のおかげでもあり、 木のぬくもりのおかげでもあり。

たぶん、こういった さりげないきらめきの おかげでもある。

寝る準備が整ったら、 2階の和室にふたりで向かう。 途中で階段の下に並べられた 彼女の料理本をちらりと見つつ。

こんなにたくさんあるのに、 本を確認しながら料理する姿は まだ一度も見たことがないと 不思議な気持ちになりつつ、2階へ。

2階には、6帖の和室がふたつ。

もうだいぶ眠いけど、 「まだ眠くない」と言って いつも彼女の部屋に行く。

きちんと整えられた部屋。 彼女の性格がよく出ている。

ねぇ、「うちにおいでよ」と 私をこの家に住まわせたのは そっちなのに。そうでしょう。

おいしいごはんに日々のやさしさ、 ここから離れたくないと 私に思わせたのはそっちなのに。

「おやすみ」の後は、 まだ別々の部屋のまま。

「さびしい」も「一緒に」も 私の口からは出やしない。 怖がりの私の口からは。

だからせめて、 おそろいの照明を ぼんやりと眺めながら眠る。 今はまだ、それだけ。

いつか言える日が来ても、 変わらず隣を歩いてくれる？ 一緒に散歩する時間を、 まだまだ大切にしたいから。

ネコを見つけたら 「にゃーにゃー」と ネコ語で話しかけてみたり、

サンダルをつっかけて 銭湯に行ってみたり、

「きれいだね」「そうだね」と 夕日をふたりで眺めてみたり、

「あ、シカだ！」って ふたりではしゃいでみたり。 そういうの、これからもしたいよ。 ねぇ、一緒の気持ちじゃないの？

文・くまのなな 東京都在住のフリーライター。1991年生まれ。漫画と水遊びとおもちが好きです。主にツイッターにいます。 @kmn_nana