世間のあれこれに なんだか疲れてしまって、 あぁいいや、もういいやって。 たくさんのものを 手放してしまいそうなときに、 彼女が私に言った。

「頭空っぽにしてさ、 私と一緒に過ごしてみようよ」

肩を丸めて都会で 暮らしていた私の手を、 彼女はゆっくりひいて歩く。 少なすぎる私の荷物が 丁寧に運び込まれたのは、 庭付きの一戸建て。

というより、 広い広い庭に なんと家もセットです！ という感じの物件。 木々や草の緑色を、 久しぶりに見た気がする。

「わぁ、みどりだ」と 子どもみたいな感想を ぽつりとつぶやいた私に、 彼女がやさしく笑いかける。 「目にやさしいでしょ」

「おじゃまします」と おそるおそる入ったら、 「ただいまがいいな」と また彼女がふわりと笑う。 そうか、これからここに、 ずっといていいってことか。

住み始めてから、 1階の和室が 私の定位置になった。 窓をすべて開け放って、 ほっぺにそよそよと やわらかな風を浴びる。

木々の間をするりと すり抜けてくる風は、 不思議とやさしい気がする。 気のせいかなぁと言ったら、 「やさしいと思えるのは すてきなことじゃない？」と 彼女が言った。そっか。

和室とリビングを 区切るための扉は、 基本的にいつでも フルオープンにしている。 畳に寝転んでうとうと 眠くなってきたときに、 リビングでコーヒーを飲む 彼女が見えるとうれしいから。

彼女がリビングで コーヒーを飲む姿は、 なんだか絵画みたいだ。 とっても絵になる。 窓から見える葉っぱが、 毎日元気に彼女の後ろで さわさわと揺れている。

料理なんてちっとも するタイプではなかったのに、 最近は野菜を切ったり 炒めたりするのが楽しい。 たまに食材を焦がすけど、 窓から窓に風が通り抜けて においを外に逃がしてくれる。

昔住んでいたところより キッチンが広くなったから、 実はうれしいのかもしれない。 キッチンの使い勝手なんて 気にしたこともなかったけど、 やっぱり居心地がいいと 自然と足が向くんだなぁ。

二階建て、しかも庭付き。 家賃が心配になって 遠慮がちに彼女に聞いたら、 「前の家より広くて安い」と にやりと不敵に笑っていた。

2階の和室に布団を敷いて、 ふたりで並んで眠るのが好き。 「ベッドじゃなくていいの？」と 彼女に聞かれたけれど、 これでいい、布団がいい。 彼女がベッドから 落ちる心配をせずに、 ぎゅうと寄っていけるから。

窓を開ければ緑。 どこにでもいるねぇと、 揺れる葉にも愛着がわく。

朝起きたらまずは ふすまと窓を開けて、 すぅはぁと深呼吸する。 いつの間にか息をするのが ぜんぜん苦しくなくて、 空気のおいしさに涙が出た。

彼女の提案で、 2階の洋室はこじんまりした ホームシアターになった。 低めのソファに並んで座り、 壁に映画を映して 笑ったり泣いたりする。

映画の途中で 眠くなったときは、 一時停止してのんびり 風の音を聞いたりもする。

緑のカーテンを ふたりで見つめて、 「きれいだね」と しみじみする時間もいい。

そのまま寝てしまっても、 それはそれでいいのだ。 寝ちゃったと焦る気持ちは、 この家ではいらないから。

パシャパシャと 顔を洗ってパッと 前を向いたときに、 目に入るのは透ける緑。 鏡が正面にないのは 不便かなと思ったけど、 これはこれで気分がいい。

たまに明るいうちに、 ゆったりとお風呂に入る。 水色のタイルに 窓からの光が反射して、 ゆらゆら、きらきら。 まるで海の中に いる気分になれる。

トイレはガラッと 雰囲気が変わって、 山の中のコテージみたい。 山と海、外には緑。 いいでしょう、自然の家。

「頭空っぽにしてさ、 私と一緒に過ごしてみようよ」

彼女の言葉をうれしいと 確かに思ったのに、 そう簡単にはできないよと 悔しい気持ちも実はあった。

でもここで過ごすうちに、 こう思うようになったよ。 風が気持ちいいなぁとか、 緑が濃くなってきたなぁとか、 季節のにおいが変わったなぁとか。 そういうトゲのない気持ちで、 心を満たせばいいのかなって。

「いい天気だねぇ」と 彼女に笑いかけたら、 足元にぐにゃりとしたなにか。 ぷーんとくさくて、茶色で。

「なにかのフン踏んだ！」と 慌てる私の姿を、彼女が笑う。 「シカやたぬきも出るからさ」と 爆笑しながら言う彼女に、 私も泣きながら笑った。

文・くまのなな 東京都在住のフリーライター。1991年生まれ。漫画と水遊びとおもちが好きです。主にツイッターにいます。 @kmn_nana