パタンって静かなドアの音。 ご主人さまが帰ってきた！

しっぽをふったり 吠えることはできない分、 ご主人さまが好きって言ってた やわらかい光でお出迎え。

それなのに なんだか浮かない顔。 目の下は真っ赤になって 朝頑張っていたメイクは 滲んでいる。

トントントンって 足音を立て リビングへ。

そう、ボクは小さなメゾネット。 高く伸びたこの体で ご主人さまを包み込むのが お役目なんだ。

ダイニングにぺたっと座った ご主人さま。 どうかそんなに 落ち込まないで。 朝早起きをして 一生懸命メイクをしたことだって 新しい水色のワンピースを着て にこって笑う練習をしていたことだって ボクは知っているよ。

ふわっとやさしい光を お届けすると 窓の外を見ていた目から ポロポロ涙が溢れ出す。

前に彼と座っていたビーズクッションに ずぼっと顔を埋め 子どものようにワンワン泣く。 こんなとき 頭をやさしく撫でられたら 声をかけられたら どんなにいいだろう。

「なんでかなぁ…」 ボソッと呟いて ぐるりと仰向けに。 ロフトの木目を じっと見つめて ぽたんぽたんと流れる涙。 「寝転がったときの この景色が好きなの」 って話していたもんね。

クローゼットのなかだって 思い出がいっぱい詰まってるんでしょう？ 初めて出会ったときのワンピース 旅行したときに着たマウンテンパーカー。 コートをハンガーにかけていた手が ふと止まる。

「泣いたら喉渇いちゃった」 冷蔵庫を開けて お茶のポットを取り出すのだけれど 「こっち、いっちゃうか…！」 ポットを戻して 手に取ったのは白ワイン。 ひとりでワインを飲むのは 初めてじゃない？ 少しだけ残ったそれを見て またじわっと涙がにじむのが見えた。

ぽわんと光るライトのキッチンで なにやらごそごそ作り始めた。 おやおや、これは おつまみですね。

ステンレスのキッチンから響く ザク、ザク、ジュー、ジューって音。 料理をしているご主人さまの顔が ボクは好きだ。

誰かさんとケンカをしたときや 泣きながら帰ってきたときは キッチンで黙々と 料理を作る。

グラスとお皿を器用に持って そろりそろりとロフトに上り ホッとした顔のご主人さま。 ふんわりとした間接照明ですよ、 どうぞ心を鎮めてくださいね…。

「今日は観るぞ」 真っ白な小さな壁に 映画を投影して。 ワインとソーセージを食べながら 観るのは「全米が泣いた」 なんて謳われていた あの映画。

花柄のクッションをギュッと抱いて ティッシュでプンと鼻をかむ。 なんて泣き虫な ご主人さま。

そろそろ温かいお風呂は いかがでしょう。 1階のお風呂 湧いていますよ。

「ひっどい顔」 洗面台の鏡で呟き 真っ白なほっぺを ペチペチ叩く。

お気に入りの入浴剤を入れて どぷんと湯船に浸かれば ふにゃんと顔が和らぐ。

ちょっと落ち着いてきたかな？

持ち込んだローラーで 顔をコロコロしながら ヘアパック。 「見返してやるんだから」 よしよし、いつものご主人さまに 戻ってきましたね。 長風呂になりそうなので ボクは小さな窓から 明かりを入れるとしましょう。

ギュッと抱きしめることも 気の利いた言葉を 言うこともできないけれど。

ご主人さまの心に そっと寄り添って ずっと側にいるからね。

文・よしだゆき 街散策とタイルをこよなく愛するフリーライター。元住宅情報誌編集者。築35年の中古マンションをフルリノベして暮らす2児の母。