誰にも知られていない
エメラルドブルーの海に、
それはそれは美しい
人魚姫が住んでいました。

人魚姫は言います。

「この海も大好きだけど、
私、別の世界も知りたいの」

そうして必死に止める
魚たちの声も聞かずに、
グンと飛び出した海の世界。

人魚姫の初めての、
大冒険が始まります。

魔法で足を手に入れて、
そろそろと踏み出した陸の世界。
とにもかくにも、
まずは住むところを
決めなくてはいけません。

「海のように広くて、
海のように澄んでいて、
きれいなお家はないかしら」

ルンルンと弾んだ声で
そう言った人魚姫に、
不動産屋のベテランさんは
うーんとしばらく悩んだあと、
「そうだ！」と目を見開いて
こう言いました。

「ぴったりの物件がありますよ」

「まるで海の中みたいでしょう？」

ベテランさんが得意そうに、
鼻をふふんと鳴らします。
壁一面が海のようなブルー。
人魚姫も大喜びです。

「この前まで住んでいた場所と、
本当にそっくり！」と
はしゃいだ人魚姫に、
ベテランさんは不思議そうなお顔。

「海の中みたいな物件、
意外と他にもあるんですねぇ…」
はて？あったかな？という表情で、
うれしそうな人魚姫を見ていました。

「これはなに？」
「これはどう使うの？」

初めて見るものたちに、
人魚姫はワクワクが止まりません。

「これは、電気のスイッチですよ」
「これは、キッチンといいますよ」

最初は驚いたベテランさんも、
きっと身の回りのことはすべて
お手伝いさんがやっていた
お嬢さまなのだと自分を納得させて、
丁寧に説明をしてあげました。

「お料理は初めてですか？」と
心配そうに聞くベテランさんに、
人魚姫は目をキラリとさせて答えます。

「大丈夫よ、海の中では
ご飯を捕まえるスピードは
いちばん早かったんだから！」

一瞬ポカンとしたベテランさん、
すぐに（この子は漁師の家の子なのか）と
ピーン！ときました。

ベテランさんの中では、
人魚姫のイメージは
“漁業で大成功した家のお嬢さま”。

「魚焼きグリルもあるから、
きっとおいしく焼けますよ」

きっとこの子は魚が好物なのだと、
まじまじとコンロを見る人魚姫に
やさしく使い方を教えてあげました。

さてさて、人魚姫の新生活。
トラブル続きになるかと思いきや、
意外とうまくいっているようです。

お部屋に置いた
白いアイアンベッドは、
人魚姫のお気に入り。
カバーはホワイトで統一され、
まるで大きな貝の中で
眠っている気分になれます。

朝に弱い人魚姫は、
あまり早起きはせず
ゆっくりとベッドから
「んん～～～」と起き出します。
ボサボサのロングヘアが、
朝のチャームポイント。

起きたらまずは、
顔を洗いに洗面台へ。

蛇口から水が出てくる光景に
「いつ見ても不思議…」と
ひとしきり感動したら、
冷たい水でパシャリと
頬を引き締めます。

目がシャキッと冴えたら、
鏡を見てこう一言。

「あぁ今日は、
どんな楽しいことがあるかしら」

るんと長い髪を梳かしながら、
これから始まるワクワクに
胸を高鳴らせていくのです。

人魚姫が唯一慌てたことは、
初めて使う水洗トイレ。

「このボタンはなに？」と
ピッと押してすぐに、
ウィーンと鳴り出す不思議な音。
頭の中をハテナでいっぱいにする
人魚姫に、突然の温水シャワー！
温水洗浄便座なのでした。

ボタンを押す時は心の準備をしよう…
強く心に誓ったのでした。

お風呂は大好きな人魚姫。
1日に何回も水を溜めて入ります。

「追い焚き機能もありますよ」と
ベテランさんに言われたけれど、
「水を温かくする機能です」と
教えてもらった人魚姫は、
まだ一度も使っていません。

ヒレがなくなった今でも、
やっぱり冷たい水が好きなのです。

インターホンに映る人で、
いちばん多いのは誰でしょう。
そう、あのベテランさんです。

あまりにも知識がない
人魚姫をとても心配して、
なにかあると慌てて
お部屋に駆けつけてくれるのでした。

海の世界と、陸の世界。

生まれ育った場所を
飛び出した人魚姫は、
陸の世界のことを
あれもこれも知りません。
けれど尻込みすることなく、
エイヤッ！と勇敢に
チャレンジしていきます。

知らないからこそ楽しいと、
人魚姫は知っているのです。
今日もまた、人魚姫は
陸の世界でときめくことを
上手に見つけていきます。

寝る前にも、鏡に一言。

「明日はきっと、
もっと楽しくなるはずね」